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生活保護と児童手当(子ども手当)と虐待>子ども手当は害悪にさえなる? [社会・ニュース]

生活保護と7人の子ども手当で生活していた31歳の夫と28歳の妻が、子どもを虐待して死なせ、「子ども手当をもらうため」にそれを隠していたことが報じられた。

詳しくはここ
http://www.ae86trueno.com/minagawa-tomomi/

以下転載

死体が見つからないまま死体遺棄と監禁致死の容疑で逮捕するという異例の事態になっている3歳時行方不明事件の概要がわかってきた。

父親の皆川忍容疑者(31歳)と妻の朋美容疑者(28歳)には実の子供が7人もいたという。そして、父親は無職で生活保護と児童手当で毎月40万円以上もらっていたというから驚きだ。明らかに児童手当を増やすために子供を産んでいるとしか思えない。母親の皆川朋美はまだ28歳なのだから、ほとんど毎年のように出産していたのではないだろうか。

テレビのインタビューで近所の人が「毎日外食に出かけていた。毎週ではなく毎日」と強調していたことから、明らかに生活保護費を無駄に使っていることがわかる。また別の人も「長女はおしゃれな格好をしていたのでお金持ちなんだと思っていた」と語っていたので、まじめに働くのがやるせなくなる。

どうやら長女や長男、生まれたばかりの小さな子供にはそれなりに愛情を注いでいたようだが、次男の玲空斗(りくと)君(当時3歳)と次女には虐待を繰り返していたようだ。

玲空斗君は言うことをきかないという理由で、60センチ四方しかないうさぎ用のペットケージに入れられ、排泄処理をするのが面倒という理由で2~3日に一度しか食事を与えられず、口にタオルをまくなどして窒息死。遺体は当初山梨県の河口湖周辺に埋めようとしたが、土が固くて掘れなかったために荒川に流したようだ。

何度か児童相談所の人が見に来たが玲空斗君がいないことがバレたらやばいので、近所の人に子供を貸してくれと聞いていたらしい。もちろん誰も応じないので、ネットでマネキンを購入し、それに布団をかけて児童相談所の家庭訪問をやり過ごしたという。

転載終わり。


私もこのニュースを知った時、あぜんとした。

次男の殺し方も惨い。
ケージに押し込み、食事をほとんど与えず、あげくにタオルを口に押し込み(私はそう聞いた)、窒息死させる。

けど、きっとこの親は死刑どころか無期懲役にもならないんじゃないだろうか。
そう、日本は、人の命が結構軽い。殺人事件の判決を聞くと、いつもそう思う。

殺人罪は、懲役8年だったり、10年だったり、15年だったり、20年だったり・・・死刑は稀である。まず1人の命を奪ったくらいでは死刑にならない。
加害者が少年だったりするとさらに軽くなる。

話をもとに戻す。
生活保護受給者は、毎日外食ができるほど裕福な暮らしをしているようだ。
私の家では考えられない。外食などほとんどしない。そんな贅沢なことを毎日できる一般庶民って今の日本の中にいるんだろうか?

※昔、パソコンが壊れた時、生活保護受給者の方から「ノートPCを貸してあげる。自分は2台持っているから」と言われたことがある。うらやましい、ノートPCなど当時は高くて買うのを見送っていた私は生活保護受給者以下なのだな、と思った。

※朝日新聞で以前、生活保護受給者の生活費内訳が出ていて、その中にケータイ通信費代2万円、というのがあって、話題になっていた。ケータイ通信費に2万円もかけられるなんて、裕福だな、と私も思った。

※地方自治体によって違うのかもしれないが、生活保護受給者も保育園を利用できる。え?仕事してないのに、なんで保育園を利用できるのか?と思うが、子だくさんであれば、子どもがたくさんいて大変だからということで利用できるんだとか。もち収入がないので、保育園に支払う料金も無料同然。いや、収入は一般の人と較べてかなりあるのに・・・すごい優遇だ。そして、おそらく生活保護受給者は弱者として、ほかの一般のお母さんよりも優先されるのだろう。で、定員いっぱいで、誰かが泣く泣く、子どもを保育園をに預けるのをあきらめる。

ほんと日本は差別社会だと思う。一般庶民が一番差別されている。事実、生活保護受給者のほうが、子どもが何人かいれば、かなりの額のお金を手にすることができる。一般に働いている人の、保険料や税金を天引きされた手取り額を上回るほどに。

弱者の権利を得た者と、そうでない者との格差は広がる。生活保護受給者は既得権益者である。

この際だから、もう資産を持っていない人は、生活保護を申請しては? とすら思う。
そして、生活保護がもらえなかったら差別だと訴えればいい。この31歳の働き盛りの男でさえ、もらえるのだ。(毎日外食にお出かけできるくらい、とても元気そうだ)
この男や女がもらえて、自分がもらえないのは不公平だ、と。

そしてこれが言いたかったのだが・・・
子ども手当=児童手当はもうやめるべきだと思う。

子どもにとっては、親によって待遇が違ってしまうのだ。子どもは親を選べない。これは不平等だ。
結局、「子ども手当」は親が自分のいいように使えてしまう。

もちろん、子どものために使う親もいるだろうが、そうでない親もいる。
そうでない親のもとに生まれてきた子どもからみたら、こんな不公平なことはない。

子ども手当はやめて、学校、保育園、病児保育園、児童養護施設などに使うべきだろう。

そういった公の施設に使われるのであれば、不公平感はなくなる。
特に児童養護施設の子どもは、一番の弱者だ。
子ども手当でばらまくのではなく、児童養護施設に税金をつかってほしい。次に保育園や学校。
子ども手当をやめ、給食費にまわし、給食は無料でいい。そうすれば、給食費を滞納して、結局払わない人との不公平感もなくなる。

なんといっても、子ども手当目的に、子どもを次々産む生活保護受給者をなくせるだろう。

自分を養うことができない者は、子どもを養うことができないのだから、子どもを作ってはいけない、と思うが、こう言うと、人権派及び左翼は「人権侵害だ」と批判するのだろう。

しかし、子ども手当を目当てに子どもを作るような親は、「虐待」「放置」する可能性が高い。
結局、子どもが人権侵害を受けるのである。

子ども手当は、一部に置いて、子どものためにならず、子どものためどころか、子どもに害を及ぼす制度である。

こういう、そんなケースはごくごく一部だ、と左派は言うだろう。
が、ごくごく一部であっても、虐待される子どもは一人でもなくすようにすべきだろう。

死刑制度もそうだ。
犯罪抑止力に「ほんの少しでもなる」のであれば、死刑制度は有効だ。

一人でも虐待される子どもが少なくなるのであれば、子ども手当をなくすことは意義あることである。

これこそ人権を守ることにつながるのでは?

そして、子ども手当の分の税金を、子どものための公の施設、学校、保育園、学童保育、養護施設にまわしてほしい。

けど、そうはならないのだろうな。

いやあ、生活保護制度にしても子ども手当にしても、「人権、平等、差別って一体なんだろう」と思ってしまった。
本当に差別されているのは誰だろう? 害を被っているのは誰だろう?



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理不尽な仕打ちを避けるためには・・・(漫画の話) [創作について]

http://ddnavi.com/news/234871/

↑によると、漫画家の数、1995年3000人が、2010年は6000人に倍増。
でも、漫画家の定義って何だろう? デビューできたら漫画家なのかな? ちょっとでも原稿料をもらったら漫画家? あるいはそれで生活している人が漫画家?

まあ、これ作家、物書きにも言えるけど・・・
プロという言葉を聞くと、やはり「それで生活している人」というイメージ。

そういえば、昔、ある人から「自称漫画家」と言われたっけ(汗)
漫画を描いたことあるとは言ったが、漫画家を名乗ったことはなかった。恐れ多くて。

いや、ほんとうは私ごとき『何もできない人』と名乗るのが一番気楽だ^^;
が、それやっちゃうと、だれも興味持ってくれない^^;

このブログでも、ピティナで「ショパン物語」描いていたので、宣伝のために、プロフィールに商業誌で漫画を描いていた頃の過去作品は並べたりはしていたことはある。

こういった宣伝行為も人様から見れば相当にうざいことは重々承知しつつ・・・
中には「宣伝するに値するようなもの、書いているのかよ?」と思っている人もいるだろうな、と。
けど自分が作った作品は自分くらいしか愛せないからなあ。親バカということで許してほしい。

んで、宣伝しないことには誰も読まない。宣伝しても読まない人の方がほとんどだ。興味を持ってくれる人はほんのわずか。それを期待して宣伝行為に励んでいるのだ。

「恥ずかしい、カッコ悪い、落ちた人」と思われそうだが、こういった創作活動やるのには、きっと「ずうずうしさ」も必要なのだろう。
創作系でがんばっている人は、皆、やっていることだ。

なので、このような批判も今では嬉しい↓
http://o.sentaku.org/anime/1000012561/vc/%e6%9e%97%e5%80%ab%e6%81%b5%e5%ad%90(%e9%9f%b3%e5%90%89%e3%81%8f%e3%82%93%e3%81%ae%e3%83%94%e3%82%a2%e3%83%8e%e7%89%a9%e8%aa%9e)

あの頃よりは多少、画はマシになったと思っている。まあ、前があまりに酷かったからな~。
otokiti31.jpg

そして今度は文章力アップを自分なりに目指す^^;

ブログも、「てをはに」間違えていること、けっこう多い。確認して投稿しているつもりでも、やはりミスがあちらこちらにある。見つけるたびに直してはいるのだけど。
こうもたくさん間違えるとは・・・ま、がんばるしかない。

さて、今回は漫画について語る。

やっぱ気になったのは、以前にも話題にしたが「境界のないセカイ」打ち切り問題だ。

まず作者の方の、この経緯について書かれたブログ記事を紹介。
http://ikuya.sblo.jp/article/115089330.html

人気があったにも関わらず、講談社側から「クレームがくるかもしれないから」という理由で、そのまま打ち切りとは・・・

それを理由に打ち切るとなると、担当編集者は編集者としての仕事をまるでしていなかったと言えてしまう。

作品に何か「クレームが来そうな問題表現がある」のであれば、編集者はOK出さず、作品が表に出る前に直させる。それが編集の仕事だ。
この作者の方のブログ記事が事実であれば、天下の講談社はそれをしなかった・・・ということになる。

編集者はあれだけ高い給与をもらいながら、基本的な仕事さえしなかったと・・・思われても仕方ない。
なのに、その責任は漫画家がかぶる。理不尽だ・・・

表現にOKを出し、表にしたのであれば、「クレームがくるかもしれないから」という理由で打ち切るのはどうかと思う。

けど天下の講談社だからなあ。「漫画家なんていくらでもいる」という思いが、そうさせるのだろうか。
上で紹介した漫画家の数、15年で倍増だもんな。

志望者を含めれば、さらにその何倍もいるだろう。

漫画家がこれであれば、作家(物書き)も、だろうなあ。
志望者は漫画家よりも多いだろう。

それでどういうことが起きるかと言うと、やっぱ「理不尽なことをされてしまう漫画家や作家」も増えているのではないだろうか、と。
出版社にとって、作家は掃いて捨てるほどいる。どんなに粗末に扱ってもかまわない。よほどの売れっ子以外は。・・・となる?

けどネットのおかげで、作家側が声を上げることができ、どういったことをされたのか、表に訴えることができ、こうやって皆が知ることができる。それが抑止力になればいいけれど。

ま、それでも大手の力はすごいし、大手出版社で仕事ができるというのは作家にとっても大きいだろうから、こういったことがまかり通ってしまうのかもしれないな、と。作家は表では「先生」と呼ばれているけど、よほどの売れっ子でない限り、かなり下に見られているような気がする。

でなければ「境界のないセカイ」のような仕打ちはしないだろう。

そのうえ、漫画にしろ小説にしろ、今はもうプロの作家の作品もネットで無料で読める時代になり・・・「作品を作って、それで食っていく」というのはかなり大変そう。
趣味で公開していても、誰も読んでくれない、というのはあるかもしれないけど、いろいろ考えさせられた記事であった。

物書きの場合、兼業の人もわりといる。もちろん、物書きだけで食えないからなんだろうけれど・・・
もうひとつ仕事をもつということは、編集から理不尽なことをされても生活に困らない、強く出られるカードとなるのかもしれない。
全ての時間を創作に充てたいだろうけど、あまりにリスクが高いので、兼業でがんばっている人も多いのかもしれない。

となると、水嶋ヒロさんも、兼業で頑張ればよかったのに、と思ってしまった^^
イケメン俳優というだけで、それはもう売りになるのだし。

http://www.cyzowoman.com/2015/04/post_15632.html
『第5回ポプラ社小説大賞を受賞し次作が期待されたものの、いまだ発表はありません』とのこと。
デビューできても、次が書けるとは限らないのだな。

厳しい世界だなあ。

自分では面白いと思っても、他者はそうは思わない場合、多いだろうし・・・

たぶん自分がやろうとしていることに価値はないかもしれないけど、創作活動という漫画に近いところに、もうしばらく居させてもらおう^^;
その間、このブログも続くと思う、たぶん。

・・・・・・・
余談。

【自分が納得する『芸術』と人を楽しませる『芸能』】

あるところで見かけた言葉。なるほどと思ってしまった。

となると・・・『人を楽しませる』方が難しいと私は思う。だから芸術>芸能じゃないんだよな。

とりあえず「自分が納得すること」を目指して、物語「プライオリティ」を作っていこうと思った^^
多くの人を楽しませることはできずとも、自分を楽しませることと納得させることはできそうだから^^;

けど、「自分が納得」って自己満足だよなあ。「芸術」ってそういうもの? いや、芸術は「人を納得させて何ぼ」じゃないのかな、とも思う。結局「人=第三者」の存在があってこそ、人を楽しませるのも、人を納得させることも、どっちも難しいけど、できたら「面白い」ものなのかもしれない。

小説では、「芸術」が文学にあたるのかな。
だから文学>大衆小説みたいな印象があるけど、そういう境界線も今はあやふやになってきているのかもしれない。

そして、人を楽しませるのは難しい。文学>大衆小説とは限らないのだ。

んで、ライトノベルを「漫画的な小説」と定義づけるのであれば、一般の文芸小説とライトノベルの境界線もあやふやになり、より自由な物語がたくさん生まれるような気がする。

けど、ライトノベルをいろいろ見ていると、なんだかあらゆる要素(設定、ジャンル、キャラなどなど)で自由がなさそう・・・んで、一般の人からは「小説>ライトノベル」「ライトノベルはみんな似たり寄ったり、同じようなお話、内容、キャラクター」と思われ、「ライトノベル読むくらいなら漫画を読む」という人も多そうだ。

本当は、上下はなく、芸術=芸能、文学=大衆小説=ライトノベル・・・というか、その境界線もあやふやなのかもしれない。

自分の場合、漫画的な小説を目指している。
でも、面白いか、面白くないか、んで、それは自分には分からない。

ちなみに、このブログ、以前の政治や社会問題、左派への突っ込み、中韓問題を扱っていた頃に較べ、アクセス数が落ちている^^;
こういった話はつまらないのかもしれないな・・・

しかし、自分の作品宣伝のためにブログをやっていると、漫画や小説、創作活動、創作について、語ることが多くなってしまうのだ。

不特定多数の興味をひくことの難しさよ・・・
なので「自分納得=自己満足」を目指すくらいしかできそうにない^^;


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さらに語る「とある飛空士への夜想曲」「獣の奏者」「風立ちぬ」>キャラの死・戦争について、およびキャラについて。酷い男はどっち? [本・テレビ番組・ドラマ・映画・マンガ・アニメ]

今までも「とある飛空士への~」「獣の奏者」などについて感想述べてきたけどhttp://kayashi.blog.so-net.ne.jp/2015-04-13、今回はさらに突っ込んで語ってみよう。

「とある~夜想曲」と「獣の奏者」を主に取り上げつつ、ジブリ「風立ちぬ」については・・・「千々石」と「風立ちぬ主人公」、酷い男はどっちか、を綴る^^;

まずは前置き。
作家の宮本輝氏が産経新聞インタビューでこのように発言していた。

小説を書くにあたって大事にしている点。
○『わかりやすく簡単に書くこと、難解な単語や熟語は使わない』

例えば「雨が降った」という表現を難しく書くことはなく、ただ「雨が降った」と書けばいい。難しく表現してうちは、まだまだ・・・ということらしい。

そうか、やはりそうだよな。ちょっとホッとした。
ネットで文章による物語を描いているので、私も「簡単に、簡潔に、わかりやすく、短く表現すること」を心掛けつつも、「情景描写が説明不足、あまりにそっけないのではないか」「もうちょっと豊かな表現をしなくてはいけないのではないか」とも思っていたので。

まあ、「雨が降った」にしても、どのくらいの強さで、というのは表現したほうがいいのかも?
小雨なのか、ザーザー降りなのか、風はあるのか、気温はどうなのか・・・などなど。

○『勇気や希望を与える物語でありたい。暗い小説は嫌い』

長い長い小説を読んで、最後に皆が不幸になったり、別れ別れになったり、というような物語は読みたくない、と。
基本的に「ああ、よかった」=ハッピーエンドが好ましい、と宮本氏は発言されている。

たしかにそうだよな。

すると主人公が最後に死んでしまう物語はどうなのか? という点について、主人公は死んでしまうが、その周りの人たちが救われる、主人公の死を乗り越え、希望をつかむ、主人公の死は無駄ではない、という感じであれば、読み手はショックではあるが、納得はできるのではないだろうか。

その作品が・・・「とある飛空士への夜想曲」「獣の奏者」「永遠のゼロ」だと思う。

ええ~と・・・主人公が最後に死んでしまう話はほかにもけっこうあったはずだが、思い出せない^^;
つまり、この3作品以外、それほど印象に残らなかった、ということでもあるのだな・・・

(「病気もの」も、そういったものがあったはずだけど、なぜか思い出せない。ああ、ひとつだけ、印象に残った話があった。有本浩の「旅猫リポート」だ。途中まで主人公が病気とは分からないので、分かった時はショックだった。心に残った。というか、これ主人公は猫になるのか? すると主人公の死ではなく、主要キャラの死ということになるのかな?)

「闘い」が絡む主人公の死は、「病気モノ」よりも印象に残る。
病気で死ぬのはある種「仕方ない。運命」、けど戦いで死ぬのは「回避できなかったのか」と思うからなのか・・・

ああ、そういえば・・・
私はRPG「クロノトリガー」にはまり、旧サイトで二次創作に励んだことがあるのだが・・・
http://www.rock.sannet.ne.jp/kiga2hon-dayo/mokuji6.html

2004年のことだ。ただし、その時に初めて「クロノトリガー」をプレイしたわけではなく、1995年に発売された当時に、一度プレイしている。が、当時はとくに感じるものはなく、すぐに売ってしまった。

それがなぜ、2004年になってから、クロノにはまったのか・・・
それは「クロノクロス」の存在を、この時、初めて知ったからだ。

「クロノクロス」とは、「クロノトリガー」の続きの世界を描いたRPGだ。
その「クロノクロス」では、「クロノトリガー」に出てきた主人公はじめ主要キャラクターは若くして死んだ、ということになっている。

「ええ? クロノ、ルッカ、マール死んじゃったのか?」
と、びっくりした。
制作者は「これはパラレルワールド。キャラが幸せになっている世界もある」と苦しい言い訳をしていたが・・・^^;

ま、とにかく、クロノトリガーのキャラたちが若くして死んだ、というので、クロノトリガーが気になり、再び触れることになり、はまってしまったのだ。つまり「主人公および主要キャラの死」がきっかけだった。

それほど、「主人公の死」というのは受け手にインパクトを残すのだ。

逆に、主人公を死なせて、あまりインパクトを残せなかったら・・・その作品はちょっと・・・ということだ。
いや、だから、そうそう主人公を死なせてはいけないのだ、とも思う。


○「とある~夜想曲」と「獣の奏者」の主人公。より惹かれるのは・・・

「とある~」では主人公の恋人が、「獣の奏者」では主人公の息子が、自己犠牲を覚悟する主人公に対し、心を痛める。

それでも「獣の奏者」の場合、14歳の息子に「生きること」を約束するので、まさか死ぬとは思わなかった。
「とある~」も、恋人に「お前のところへ帰る」とは言うのだけど。その前に「戦いで死ぬことは本望」とも言っている。

では、どっちの主人公に惹かれたか、となると、僅差で「とある」だ。

私的には・・・千々石>エリン

その理由。
「獣の奏者」のエリンは、あまりに「いい人」「理想的な人」「善人」「立派な人」で、欠点が見当たらない。

対して「とある」の千々石は、自分勝手な面がある。恋人を傷つけてでも戦うほうを選ぶ、恋人よりライバルを選んだ、と言っていい。欠点もある人間。

なのでキャラとして、千々石のほうがエリンよりも魅力的に思える。
欠点のないキャラにはあまり惹かれない。嘘っぽいから。


○テーマについて。
「とある~」も「獣~」も素晴らしい。

おそらく、左派は、「とある~」を戦争美化、特攻隊美化、として「右傾化エンタメ」と言うだろうけど、「獣~」だって、ある種の特攻だろう。なのに「獣」は反戦をうたった話として、左派も受け入れているようだ。

けど、「とある」だって戦争の愚かしさを訴えているし、「永遠のゼロ」も特攻作戦を批判している。
が、なぜか「獣」とは違う扱いをされている気がする・・・


「獣~」で一番、評価する点について。

戦争・戦うことを「穢れ」とする人たち=戦う人(兵士、軍隊)を見下しつつも、その人に護られ、富を享受していた一団に対し、「富を手放す覚悟があるのか」と問う点だ。「富を享受したいのであれば、戦いに参加せよ」というような場面がある。

そして、多数決で決めるのだ。戦うのか、戦わないのか。そして「戦う」ことになった。富を手放さないことを選択したのだ。

この場面を見て、左派はどう思っているのだろうか。

私が「獣」を評価する一番の場面でもある。

「とある」でも、「なぜ戦争になったのか」について、原因はあまりに多すぎる、とし単純化していない。「誰が悪いというわけではなく、時代の要求がそうさせた」と主人公・千々石は答える。

「はだしのゲン」のように、お金持ちや権力者が欲をかいて戦争を起こした、などと「単純なお子様的な理由」を並べたりしていない。

当時、人権という概念もなく、欧米諸国の植民地政策が当たり前だった時代、植民地を持っている国々が『ブロック経済』でもって、植民地を持っていない国を脅かしたこと、日本やドイツを経済的に追い詰めていったことなど、原因はほんとうに様々あるだろう。

ロシアも怖かったし、戦々恐々としていた時代だ。

「はだしのゲン」および左派は、日本を「欲をかいたから、戦争を起こした」というのではなく、このように言わなくてはいけない。「日本は貧乏になる覚悟がなかったから戦争をした」と。

もちろん、貧乏になる、ということは、弱者救済はできない、ということでもある。それでも戦わない、と言うのであれば、それはそれでひとつの考え、価値観だろう。

戦争で死ぬのは嫌だけど、病気や貧しさで死ぬのは仕方ない、と思う人もいるだろう。
戦争になれば、さらに貧しくなる可能性だって高いのだから。

そう、上でも触れたように、闘いで死ぬのはショックだが、病気で死ぬのは仕方ない、と受け入れられる人も多い。
だから、左派はそう訴えればいい。「戦いで死ぬよりは、貧乏の方がマシだ」と。

まさに「獣の奏者」が言っていた「富を手放す覚悟がありますか?」だ。

そして「侵略の定義がない」ということは、植民地支配をしていた欧米諸国にとっても都合がいいのだ。だから「侵略の定義はない」のだ。正義は「戦勝国が決めるもの」だから。

従って、「侵略の定義はない」のだから、日本も侵略行為はしていない、ということになるのだ。
いやいや日本は侵略をしたというのであれば、左派は欧米諸国についても批判し、戦争に加担したことのあるすべての国に反省を求めるべきである。日本のみ「悪」とし、日本にのみに求めるのは、日本への差別だ。

つまり「とある~」の千々石の言っていることが正しい。
「誰が悪いわけではなく、時代の要求がそうさせた」と。

「戦うこと・戦争」について、「とある~」と「獣の奏者」は核心をついている。

が、左派はたぶん、「とある~」は嫌いで、「獣の奏者」は好き・・・なんだろうな・・・けっこう似ている部分、多いのに。

まあ、ただ「とある~」で、特攻(死)を怖がる、迷うキャラが一人も描かれなかったのは、戦争を描く物語としてひっかかるといえば、ひっかかるけど、物語上、それを描く余裕はなかっただろう。
「生き残ることを考えてくれ」というヒロインのセリフが、それに代わる。

もし、端役兵士でもいいから、その場面(特攻を躊躇する、迷う、怖がる)を描いていれば、戦争ものドラマとして左派も納得100点満点だったかもしれない。

逆にそれがないと、「戦争美化、特攻隊美化」と突き上げられる。


○ジブリの『風立ちぬ』の主人公ほうが、「とある~」の千々石よりも酷い男だと思う点について^^;

よくよく考えたら、ジブリ「風立ちぬ」の主人公って、妻になったヒロインの死に目に会ってないのでは? 
あの終わり方はそうだよな。

しかも、ヒロインがサナトリウムに帰った後、会いに行ってないのでは? ヒロインは「自分が病気でやつれて、ひどい姿になるのを見せたくない」ということで、主人公のもとを去ったのだから。

で、妻を追いかける描写もなく、おそらく主人公は飛行機作りに没頭し、夢にまい進し、ヒロインを放ったらかしだ。

主人公がその後、妻を見舞ったと想像しにくい物語だ。

うわあ、なんてひどい男なんだ・・・夫なのに、死に向かっている妻を放っておくなんて。それがたとえ妻の望みであっても、ちょっとそれはないんじゃない?

「とある」の千々石は、生き残って恋人と暮らすことより、戦うことを選択し、恋人=ユキと距離を置こうとし、会ったら余計に傷つけるとし、出立の前、ユキに会うか会わないか迷い、最終的に「会う」という選択をした。

ちゃんと「迷い」が描かれていた。
自分の死後、恋人が強く生きていけるか、思いやっていた。

しかし、ジブリの「風立ちぬ」の主人公に、そういった迷いの場面は一切、描かれてない。
ヒロインが主人公に黙ってサナトリウムに帰った後、主人公は何を思ったのか、も描かれない。

またヒロインも、自分の死後について、千々石のように残った人たちに思いを寄せる描写はない。ただ「自分のひどい姿を見せたくない。きれいなままの姿を夫である主人公に残したい」と、「自分のこと」しか考えてない。で、黙って姿を消す。

人間度から言って、
千々石>>>>>>>>ジブリ風立ちのヒロイン、でもある。

当然、ヒロイン同志で比べるなら・・・
ユキ>>>>>>>>>ジブリ風立ちぬのヒロイン、だ。

「>」の数、もっと多くていいくらいだ。

話を元に戻す。

ジブリ風立ちぬ主人公の、あのラストを見た限り、
主人公は出て行ったヒロイン・妻を追いかけもせず、会いに行くこともせず、おそらく死に目にも会ってない・・・あの淡々とした感じでは迷いもせず、ヒロイン・妻の望む通りにさせた(=生きている間は会わない)、と受け取られても仕方ない。

本当に呆れるほど、キャラもうすい物語だった。

迷いを描いてこそ、人間ドラマなのに。
そういったところを排除したキャラに全く人間味・魅力を感じない。

男として、人間としてのキャラの魅力
千々石>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジブリの『風立ちぬ』の主人公

「>」の数、もっと増やしたいくらいだ。

ついでに主人公としての魅力
千々石>エリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジブリ「風立ちぬ」主人公

エリン以下の「>」の数、もっと増やしたいくらいだ。


○「獣の奏者」について。言っていること正しいけど、引っかかった点。

「生き物の性を歪めてはいけない」・・・動物を家畜として飼い、食料とするのは仕方ないけど、子孫を残せない体にしてしまったことを「やってはいけないこと」とし、主人公エリンは人間の身勝さに罪悪感を抱くのだけど・・・
現実、ペットの犬なり猫なり、避妊させていることについて、どう思うんだろうなあ、とふと思ってしまった。これも「性を歪めている」ことになる。エリンから見たら「悪」だな、と^^;ペット飼って、避妊させている人、「獣の奏者」読んで、この点はどう思ったんだろう?

・・・・・

とまあ、好き勝手に語ってしまったが・・・

ハヤシは結局、何が言いたかったのか・・・それは前の記事でも叫んでいたが、なぜ「とある飛空士への夜想曲」が、「獣の奏者」「永遠のゼロ」「ジブリ風立ちぬ」ほどに、世間の話題にならなかったんじゃ~? ということだ。

また機会があったら叫ばせてもらおう。


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ラノベと小説>とある飛空士への夜想曲、他作品>千々石にベジータを見るw [本・テレビ番組・ドラマ・映画・マンガ・アニメ]

※「とある~」ほか、いろいろな小説、ネタバレしてます。

「とある飛空士への夜想曲」を読み終わり・・・一番、困ったのが、ほかの小説のお話が物足りなくて、つまらなくなってしまったことだ^^;

そもそも種類が違う「まったり系、ほのぼの系、コメディ」と較べるべきでもないし、「それはそれ、これはこれ」で楽しむものだけど、こういった作品の物語性をうすく感じてしまうようになり、とりあえず、ななめ読み・・・続きを読むのも億劫となってしまった。楽しみにしていたはずの小説(「メディアワークス」なのでライトノベルに入るのかな?)だったのに。

なんてこった、大半の作品がおもしろくない、ものたりない、入り込めない・・・

また、同じ種類=戦闘テーマのお話、「土漠の花」(一般の文芸書・小説。ラノベではない)もつまらなく感じ、『とある~夜想曲』の足元にも及ばなかった。

この「土漠の花」・・・そうそうたる人たち(見城徹氏は号泣・・・まあ、見城さんはこの本の出版元だから当然として・・・秋元康氏は絶賛)が褒めているんだけど・・・
う~ん、私の感覚がずれているのか?

「土漠~」の場合、仮に「とある~」を読んでなくても、つまらなかった気がする・・・
次々、自衛隊員の方が戦闘で死ぬのだけど、心に残らない。

「とある」の主人公・千々石の死が衝撃的で(覚悟はしていたが)、心に残っただけに・・・この差は何なんだろう、と思ってしまった。

おそらくキャラクターの描き方で、密度の違いが出た感じがする。

見城氏、「土漠」で本当に号泣したのか?

ただし、「とある~夜想曲」も、主人公以外のキャラの死については、私はあまり心に残らなかった。
下巻から登場する主人公の同期2人の死にいたっては、あっけなく思った。
上巻から登場していた主人公の部下2人の死についても、「ああ、部下が死んだか。これでもう主人公の死は決まったか・・・」と、まずは主人公のことが心配になってしまった。

キャラクターがどれくらい描かれているかで、「死」のインパクトも違ってくるのだろう。

というわけで、私の正直な感想。

「とある~夜想曲」>>>>>「土漠の花」


ただ「土漠」は、主人公は死んでないからなあ。較べるのは酷かもしれないけど。

主人公、あるいは主要キャラの死、というのは、わりと「心を動かされやすい」し、特に主人公の死は受け手にインパクトを与える。

「獣の奏者」(完結編)は特にそうだった。主人公の死は予見できなかったので、インパクトが強かった。レビューにも「ショックだ」という感想が多く見受けられる。

「~夜想曲」「永遠のゼロ」は主人公の死を予見できる。
「助かってほしいなあ」という気持ちがあるので、ショックは受けるが、
「獣の奏者」の主人公の死は「えええ? うそ~」という感じで、大ショックだった。

うん、「~夜想曲」=「永遠のゼロ」=「獣の奏者」(完結編のほう)
私的に、この3つは並ぶかな。
まあ、僅差で「永遠のゼロ」よりも「夜想曲」が好きだが。
「~夜想曲」と「獣の奏者」(完結編)は完全に並ぶ^^

(ああ、なのに、なんで「夜想曲」は、「永遠のゼロ」「獣の奏者」ほどに話題にならないのだ?)


そうそう、前の方の記事にも書いたけど・・・
小説ではないが、ジブリ映画の「風立ちぬ」について。

ヒロインの死にいたっては、まるで何も感じなかった。主人公も悲しんでいる様子が描かれなかったし・・・あまりに淡々としすぎ。人間味がうすい。全く共感できない、というか、何を共感していいんだか分からないお話。

戦争の悲劇もそれほど描かれていない。

それでいて、戦争の悲劇を主人公は口にする。
飛行機=戦闘機を作ったのは、ただ夢を実現したかった、と、のたまう。それも淡々と。
主人公は、人殺しの戦闘機を作ったつもりはないらしい・・・きれいごとだな・・・

このアニメ・・・もはや「きれいごと」を通り越し・・・よく分からない、一体、何が描きたかったんだろう?

戦争や死、恋愛を扱いながら、これほど、つまらなく、うすくて、心に全く残らない、訴えるものがない、人間が描かれてない、ドラマのない物語はちょっとめずらしいのでは、と。

あえて正直な感想を。同じく「とある~夜想曲」も、戦争、恋愛、死を扱っているが・・・・

「とある飛空士への夜想曲」>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジブリの『風立ちぬ』

「>」の数、もっと増やしたいくらいだ。


なのに、何度も言うが、なんで「とある~」がもっと話題にならなかったのだ・・・と思ってしまう。もっと一般的に広がってもいいのに・・・
やっぱ「ラノベだから、一般の人が手に取らない」っていうのもあるのかもしれない。

そういえば私も・・・世に出回っているラノベは、よほど話題にならない限り、手に取ることはない。

なので「とある飛空士への~」との出会いも偶然と言えば偶然だった。

中山七里の「追憶の夜想曲」(これはおもしろかった)を検索していたら、たまたま「とある~追憶」「とある~夜想曲」がひっかかった。

けど、そこで、もし【よくあるラノベのイラスト表紙】だったら、私は「とある~」に興味を示さなかっただろう。

(ラノベが小説より下と言っているのではない。感覚が合わず、私が苦手なだけだ。それに漫画的な小説は基本的に好きである。ライトノベルにカテゴライズされない「トッカンシリーズ」「3匹のおっさん」など、けっこうある)

「とある~夜想曲」の表紙が、「よくあるライトノベル風のイラスト表紙」じゃなかったので、目に留まった。



これ、漫画の表紙なら普通だ。けど「ラノベ」では異例だ。

右に至っては「女」がいない。「男のみ」というのはラノベ表紙では稀だ。(男性読者が対象の場合)
「男のみ」だとしても、メディアワークスの「零能者ミナト」のような「キレイなイケメン」ならともかく・・・、
男臭いオトコが一人で表紙を飾るなど、かなり、めずらしいのではないか。

(ちなみに、私は、キレイなイケメンより、千々石みたいなのが好きだが)

メディアワークスは「脱ラノベ」(というか、今、出まわっているラノベよりも、大人の一般読者をターゲットにしている)を目指しているそうで・・・メディアワークス文庫は「よくあるラノベ表紙ではない本」も多い。主人公も社会人OKだ。

なので、メディアワークスはラノベの中でも異例。小説に近いラノベと捉えている。
だから、私はメディアワークスのほうは、たまにチェックする。

一方、「とある~夜想曲」は「ガガガ文庫」だ。「ガガガ」のほかの作品を見たら「ラノベど真ん中」である。「とある~夜想曲」が異例だ。


話を戻す。「とある~の表紙」について

この男=千々石を見て、ベジータを大人っぽくした感じに見えた^^;
性格もおそらくベジータタイプだろう、と。

で、「女の子たちメインのよくあるラノベ」ではなく、少年青年漫画に近い雰囲気を感じたので、興味を持ったのだ。

左の表紙も、パッと見、千々石は20代後半に見えてしまった。いや、これ30代でも通じるのでは。
手前の女性も、いわゆる「女の子」というよりも、「大人の女性」に見えた。

この絵で主人公とヒロインの年齢は、まさか10代ということはないだろう、と、ここでも興味をひいた。大人っぽい物語を期待させた。

だが、「とある~」について調べてみると、「~追憶」を先に読め、という意見が多く、「追憶」を調べた。

「追憶」はその人気から「劇場版アニメ」にもなっていることを知った。
「追憶」のほうが、「夜想曲」より、話題になった、面白い、人気をとった・・・という感触だ。なので、まず「追憶」を選択した。
1巻で終わる、というのも大きかった。

ここで、もし「追憶」がつまらなければ、私は「夜想曲」を読まなかっただろう。

が「追憶」に感動したので、これなら「夜想曲」を読んでみたい、と思い、「夜想曲」を読んでみたら、まあ、なんということでしょう~。「追憶」よりも好きかもしれん、感動した、すばらしい、はまった・・・という結果になった。


「飛空士への追憶・夜想曲」は、よくある「ラノベ風なお話・キャラ・のり」じゃないところが良いのだ。

夜想曲に限っては、
主人公が22歳~23歳。ヒロインも20~22歳。
子どもの時の話はあるものの(主人公14歳、ヒロイン12歳)・・・

で、男キャラが多い。女はヒロイン一人だけ。

これは、10代後半から20代の男性を読者ターゲットにしているラノベでは、めずらしい。

ラノベでは、主人公は10代がのぞましく、20代だとしても大学生まで。社会人不可。ファンタジーであれば、主人公20代はありえない・・・ようだ。

一方、青年(成年)漫画なら、20代前半から後半の主人公は普通にいるし、社会人キャラも多い。
で、女キャラは少なく、男キャラが多い作品は普通にある。(恋愛コメディのぞく)

だが、ラノベでは女の子キャラは多い方がいいらしい。女はヒロイン1人だけというのは異例のようだ。

レビューや感想などチェックすると、「よくあるラノベは飽きた」「お腹いっぱい」「ハーレム、萌えはいらない」という意見もよく目にする。
なのに、何でラノベって、漫画みたいにジャンルが広がりがないんだろう・・・
見かけるラノベって、みんな似たような印象。

メディアワークスのみ、ラノベと小説の中間をねらっている、今のよくあるラノベから脱しようとしている、ラノベではない漫画風の小説を目指し、読者層を広げようとしているのに・・・なんで、ほかの大手出版社はメディアワークスみたいな挑戦をしないのだろう。
漫画のように広い層に興味を持たせるようにしたほうがいいのでは、と思うのだけど。

いかにも「ラノベ風」というような本を敬遠する人は意外と多い気もする。私もその一人だ。

「とある~」でさえ、「恋歌」と「誓約」は表紙のイラストから「10代くらいの女の子がたくさんいる、よくあるラノベ臭」を感じ、私は「合わないかも・・・」と手を出さないでいる。「追憶」と「夜想曲」がこれほど良かったにも関わらず。

・・・・・・

ところで「夜想曲」を手放しで称賛しているけど、
12歳の時のユキ=ヒロインのほうは「大人な振る舞い」をするのに、20歳の時は、千々石に対し「バカバカバ~カ」と子どもっぽいセリフを口にするのに違和感もった。

このヒロインの子どもっぽいセリフは、「ラノベ風の女子にしないといけなかったから」なのかしら?
「バカバカバ~カ」と口にする20歳・・・無邪気というのとは、また違う気がする。

20歳のヒロインの「バカバカバーカ」と「バカ」が何度も繰り返される子どもっぽいセリフはひっかかった。(ま、高校生くらいまでかな^^;)

「ラノベ」というジャンルが、そうさせてしまった(そうせざるをえなかった)気がするのは、うがった見方かしら。
もし「ラノベ」という縛りから、そうなってしまったんだとしたら、残念に思った。

作者の犬村小六さんのライトノベル第一作「レヴィアタンの恋人」のあとがき読んだので、よけいに・・・邪推してしまう^^;(古書店で「あとがき」だけ立ち読みした^^;)

そのあとがきによると・・・
犬村氏がこの『レヴィアタンの恋人』を各出版社に持ち込んだところ、「(今流行の)ラノベらしくない」「萌えがない」=女の子キャラがライトノベル読者好みではない、と多くの編集者らから言われ、原稿を突き返されたらしい。


私は、ライトノベル風の少女たち(幼さを演出したロリータ、失礼な言動のツンデレ、お姉さま、オドオド型で大人しい、無表情の綾波レイ型など)類型キャラに感情移入や共感できることはほとんどなく、物語に入り込めない。

この手の少女は「はるひ」「エヴァンゲリオン」で、もう十分では、と。
いや、この手のキャラは魅力あるから、あちこちで使われるのかもしれないが。

戦闘好きで強気でちょっと自分勝手で誇り高い千々石は、ま、ベジータ型で、これだって少年漫画の世界ではよくいるキャラだけど、この手のキャラは「お腹いっぱい、飽きた」とは、ならないのだ^^;

ま、私がベジータ型が好きなように、「ツンデレ型、綾波レイ型、ロリータ型」キャラが好きな人も多いのだろう。

あ、けど千々石は、ベジータよりは素直だし、お礼も言うし、ベジータよりも大人ですが。

で、「夜想曲」のヒロイン・ユキについても・・・「バカバカバーカ」など一部のセリフは気になったものの、全体的には共感、感情移入できるし、いいキャラクターだと思う。最後の方はやはり切ないしね。

・・・・・・

「とある~追憶、夜想曲」・・・「ラノベ」だからこその設定だな、と思ったところについて。

空母・戦艦が空を飛ぶ・・・つまり、あのような重いものを空に浮かべることができる技術を持っているのに(空母や戦闘機は電力で飛んでいる)

「追憶」では、皇妃候補の姫=ヒロインが馬車にのっていたり(自動車じゃないのか・・・トップクラスの大金持ちが馬車を使っているなら、自動車はない? 少なくとも一般的に普及はしてないようだ)、

「夜想曲」では少年・千々石は炭鉱で働いている。(一般社会では石炭を使っているのか・・・ちなみにレコードは蓄音機でまわす・・・エアコンはないようだ)、

水素電池によって戦闘機や空母は空を飛ぶことができるらしいが、地上の一般社会の、ほかの技術は前時代的だ。

こういった世界観について、ひっかかりは覚えたものの、ファンタジー要素の強い架空世界ということで、そういうのもあり、と思うことができる。

ラノベはそれだけ「自由な設定」であっていい、ということだ。

ライトノベルは、一般の小説に較べ、ある程度「ご都合主義が許される」「リアリティが多少、なくても許される」「漫画的」な気がする^^

これは「小説>ライトノベル」というのではなく、ライトノベルは「より自由に物語を作れるジャンル」なのだと。

が、実際は小説よりも、そして漫画よりも、「縛りが厳しい」気がする。

10代~20代読者向けとなっており、読者層は漫画より狭そうだ。

男性向けの場合、女の子キャラは複数。萌えがないとダメ。ツンデレ、お姉さま、綾波レイ型など定型キャラがそろっていることが望ましい。
主人公は10代、どんなに歳くっていても大学生まで。
ファンタジー(SF)と恋愛ものがほとんど。似たり寄ったりという印象。

これが一般の人から「小説>ライトノベル」と思われる一因になっているのでは、と。

小説とライトノベルの境界線上の作品もあるけれど、そういう作品がもっと増えれば面白いだろうに、と。

ライトノベルの中にも『~夜想曲』のような作品があるのだ、ということで、小説とライトノベルの境界線がなくなっていけばいいのに、と・・・。

※ちなみに、ご都合主義はあっていいと思う。矛盾もある程度、仕方ない。

「獣の奏者」だって、主人公エリンは当初、王獣に耳栓をして飛ばしていた。だれかが吹いた「音なし笛」を聞いた王獣が硬直してしまわないように、墜落しないように。
なのに、途中から「ハープの音」で王獣を操るようになり・・・「耳栓はどうした?」と思った。

そしてラスト、音なし笛を鳴らし、狂った王獣を硬直させ、墜落させるエリン。王獣もろとも墜落しエリンも死ぬ。「皆を助けるため、王獣を止める最後の手段」として、「音なし笛」を使う。
王獣に耳栓していなかったのか? いつから耳栓なしで飛ばすようになった?・・・ということを忘れてしまうくらいにショックであった。

獣の奏者だって、こういった「ご都合主義」があるのだ。で、おそらく、読み手はこういったことをあまり気にしない・・・のかな?



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感動しない臓器移植物語と感動した「とある飛空士への夜想曲」について [本・テレビ番組・ドラマ・映画・マンガ・アニメ]

改めて犬村小六の「とある飛空士への夜想曲」について。(ネタバレあり)


うむ、これも素直に感動した。ちなみに、アマゾンのレビューも「下巻」のほうが多く、5つ星だけど、私も下巻のほうで、ぐいぐい引き込まれていった。

けど、やはりその前に「~追憶」を読まないと、その面白さは半減してしまうかも。「追憶」からつながっているし、「追憶」を読んでないと、最初の方は「?」かもしれない。
もちろん「追憶」も良かった。素直に感動したぞ。


※私は右の単行本で読んだ。こちらのほうが改稿されているということで(『~夜想曲』と同時期に出版されている)、私としては右がおすすめ。

「夜想曲」も「追憶」も、人によっては「ベタな展開」「よくあるパターン、よくある展開」と言うだろうけど、「ベタな展開、先が見えてしまう話」で感動させる(キャラへ感情移入させる、キャラを応援したくなる)からこそ、すごいのだ。

こういうのを読むと、物語に「どんでん返しは必要ない」「先が読めても別にかまわない」と思ってしまう。
逆に感動させる方がずっと難しい。

で、どんでん返しを狙っても、けっこう無理があったり、矛盾があったり。
ならばキャラをじっくり描く方がいいのかもしれない。



※ここから先はネタバレ要素あり。

先が読めると言っても、「とある~」がすごいのは、こういうことだ。
「追憶」では、「二人は別れることになるんだろうな、でも一緒になれたらいいよね、一緒にならないのかなあ、そういう展開はやはり無理があるか」と思いながら、読み、んで終わりで「ああ、やっぱり」と思う。だからこそ「どんでん返しで一緒になれないのかなあ」と、最後まで引っ張っていってくれる。

「夜想曲」も同様。「死ぬんだろうな、でも生きてほしいよね。生き残らないかなあ。この展開では無理があるかもしれないが」と思いながら、読み、んで終わりで「あ、やっぱり」と思う。だからこそ「どんでん返しで生き残らないのかなあ」と、最後まで引っ張ってくれる。


ところで「夜想曲」のほうは、「永遠のゼロ」のライトノベル版と言われているそうだけど・・・ライトノベルではの良さがあると思う。
漫画的感性の私は「夜想曲」に肩入れしちゃうかなあ。「永遠のゼロ」ももちろん感動したし、良かったんだけど。

んで、ライトノベルによくある「萌え」とか「ツンデレ」も抑えてある。目立つ女性キャラはヒロイン一人のみで、少ない。
多少の漫画的なノリは、かえって私の好みだ。(萌えとツンデレはもうお腹いっぱい、かえって、このタイプのキャラが出てくるとその時点で白けてしまう)

つまり、萌えやツンデレがなく、漫画的なノリのライトノベルがあったらいいなあ、と思っていたら、「夜想曲」「追憶」が自分にヒットしてしまったのだ。

ところで、「夜想曲」は「追憶」のように映画にも文芸書にもなってない・・・どうしてだ? やはり「永遠のゼロ」があるから、なのか・・・「2番煎じ」と思われてしまっているのか? でも、2番煎じってことはないぞ。むしろライバルとの闘いや恋が描かれている分、漫画的ノリも求めている私は「永遠のゼロ」よりも「夜想曲」のキャラに感情移入できて、おもしろく読めたんだけどな。

そんなわけで「夜想曲」を応援したくなってしまい、こうしてネタにしてみた^^

ライトノベルは、今まで有名どころ「ハルヒ」「キノ」「バッカーノ」などは読んだことがある。これらは楽しく読めたけど、実は、ライトノベル=SFやファンタジーは苦手なほう。私は普通の小説の方を好んで読む。

で、「夜想曲」と「追憶」は、ライトノベルと小説の中間に位置する、と勝手に思っている^^

ただ・・・手放しで褒めている「とある飛空士~シリーズ」だけど、「~恋歌」はもしかしたら私には合わないかもしれない・・・(ファンの方、ごめん、あくまで私の感覚ね)
アニメで見たけど、魔法・超能力的な「風使い」の少女が出てくる段階で、受け付けなくなってしまった。登場人物がたくさんいるので、覚えられない。「夜想曲」や「追憶」と違い、ラノベによく見られる女の子キャラがゴロゴロいる。これは苦手とするライトノベルっぽい・・・

「追憶」と「夜想曲」は、そういった魔法の類は出てこない。主人公はものすごい才能と技術を持っているものの、主人公含め全員「普通の人間」である。

「~恋歌」は、なぜ一人の少女だけがあのような特異な力を持っているのかな、ということで、そこで止まってしまう。周囲の人たちも特異な能力=魔法使いであれば納得だけど。ただ、魔法ものや超能力物は苦手なので、私はその段階で敬遠してしまうだろう。(ハリーポッターでさえ、さほど面白いと思えなかった。小説に限っては、最初で挫折した^^;)

※なので「~恋歌」「~誓約」は読むのを躊躇している^^;

「追憶」と「夜想曲」が私の一押しだ。
今まで読んだライトノベルの中で、ダントツ。感動の域まで行ったのは、今のところ、この2作品しかない。

もち「所詮、ライトノベル」「漫画的」という人もいるかもしれないけど、私も一般的に出回っているよくあるタイプのライトノベル的なお話は苦手だ。(ライトノベルが小説より下と言ってるわけじゃない。漫画的なノリでサクサク読める小説は大好きだ。「トッカンシリーズ」「3匹のおっさん」もそのひとつだろう)

ただなあ、やっぱ主人公は幸せになってもらいたいよなあ、とは思う。(幸せの定義は何か、というのは置いておいて)

レビューに面白い意見が書いてあった。

女性にとっては、ファナとユキ、どちらが幸せなんだろう?・・・て。

ファナの場合・・・好きな男性とプラトニックラブまで、その後、お別れ。結ばれることはない。ただし男性は生きている。きっと、どこかで幸せに暮らしているに違いない、またいつか会えるかもしれない、と思う余地を残させてくれるケース。

ユキの場合は、好きな男性と結ばれ、子どもを手に入れる。しかし男性は死亡。二度と会えない。

私個人は、ファナケース。やっぱ生きていてほしいもの。んで、どっかで幸せになってくれればそれでいい。もしかしたら、どっかで会える余地もあるんだし。

ということで、主人公各のキャラは死なせたくないよなあ。

ま、左派から見たら、「とある飛空士の夜想曲」(ほぼ戦中の日本とアメリカがモデル。太平洋戦争をモチーフにしている)は、右傾化エンタメなのだろう。
(特攻する主人公を無駄死にさせていない。戦局を変え、終戦へのきっかけをつくった意味のある死にしている。恋人に「カッコいい」と言わせている=生き様がカッコよく描かれている=国のために戦うことや特攻を全否定していない。しかし戦争が悲惨であることは描かれ、戦争賛美しているわけではない。が、左派は賛美を捉える)

と「~夜想曲」を読んで、いろいろ思ったのでした。

あ、そうだ、零戦といえば、ジブリアニメの「風立ちぬ」・・・やっと見たのだけど、つまらない・・・ドラマがまるでない、おまけに主人公の声があまりに素人(エヴァの安野監督だからな)、あまりの酷さにびっくりした。
キャラに感情移入できないし、ヒロインも死ぬのに、何も感じなかった。
いやあ、普通、主要キャラの死って、もうちょっと心をゆさぶるものだが、まるでなし。
時間も長くて、見るのが苦痛で、何度もやめようと思った。だから「ながら見」
いっきに見ることできず、ごはん食べる時、10~15分ずつ見た。途中から早送りで。
終わり方も・・・「え? これで終わり?」とあっけなかった。

『ハウル』からジブリはつまらなくなったな、と思っていたけど、まさかこれほどとは・・・私の正直な感想です。

・・・・・・・・・

さてさて、反対に感動しなかった、白けるを通り越し、かえって気持ち悪いと思った「感動系作品」について。、

前のほうの記事で、
少女(小中学生)が妊娠し、結局、苦しんで出産して、皆からも祝福されて、ハッピーエンド・・・テーマは命♪・・・でも、その後の子育てには触れない・・・というドラマや漫画の話に触れ・・・

「無責任なきれいごと物語」だなと思った。

せっかく宿った命、中絶は殺人、命は大切に、だから産もう・・・もちろん、これは善であり、正義である。
が、その後の我慢を強いられる子育てについては触れない。
触れたとしても、『周囲の協力もあって、上手くいってます。少女ママも少年パパも仲良く子ども育ててます』『子ども、元気に成長しました』と、サラッと描く程度。

『非現実的ご都合主義な無責任エンタメ』ということで、私はああいった物語は感動もしないし、『命を大切に』というメッセージにも、「じゃあ、その後の子育てを描こうよ。そっちが大事じゃん」と思ってしまう。

・・・というようなことを語った^^;

命大切テーマといえば、もうひとつ「臓器移植」について考えてみる。

産経新聞にて・・・生体腎移植で、妻が夫に腎臓を提供することになり、一度は同意したものの、実は夫側から圧力があり、妻はほんとうは提供したくなかった、ということで、移植は見送った、という内容の記事を見た。ドナーとなる人の本当の意思を尊重しなければいけないし、ドナーになるよう圧力がかからないようにしなければいけないけど、実際、どうなのだろう。ドナーになるのを嫌がったら「冷たい」と非難の空気があるのかもしれない。

ドラマなどでは、こういった生体臓器移植がテーマな場合、家族が快くドナーになり、成功、ハッピーエンドで、感動物語となるが、実際、ドナーとなるほうはかなりの葛藤があるのではないか。もちろん、移植される方も、家族の健康体を傷つけてまで、ということで悩むだろう。ドナーは絶対安全とも限らない。リスクはあるのだ。

以前、http://kayashi.blog.so-net.ne.jp/2010-01-03でも取り上げたが・・・生体移植をテーマにした本(映画にもなった)「私の中のあなた」、そして漫画「ブラックジャックによろしく」・・・どちらも違和感ありの作品だった。

「ブラックジャックによろしく」
ありえん・・・家族間でさえ、葛藤あるのに、家族でもない恋人でもない「友人・同僚関係」で自分の臓器をあげる=ドナーになるかな、と。

腎臓は片方だけになると、疲れやすくなり、若い女性は出産も難しくなるので、まず若い女性がドナーになることはないと聞く。

ブラックジャックによろしくの主人公、激務には耐えられない体となる可能性が高くなる。
主人公って「善人」だとは思うが、ここまでいくと「気持ち悪い善人」にうつる。ま、非現実的なキャラにしか思えなかった。

「私の中のあなた」は、舞台はアメリカだが、親が、姉のために、妹(14歳)へ腎臓を提供しろ、と迫る。
この時点で、かなり気持ち悪さを感じた。親のエゴもここまでいくのか、と。
ちなみに、日本では、若い女性のドナーは認められない。未成年もダメだ。

結末も気持ち悪い。感動物語なのだろうが、私は気持ち悪さしか感じなかった。命の大切さなど伝わらない。

なぜ、気持ち悪く思うのか・・・それは「絶対善」だからかもしれない。

この14歳の妹(もう治療は嫌だと言う姉のために、ドナーになりたくないと抵抗したが、本当は姉に提供したかった)も、ブラックジャックよろしくの主人公も、相手のために、自分を捧げることができる。心の底からそう思える絶対なる善人。

提供することに躊躇する、ほんとうは提供したくない、リスクもある、怖い・・・これが普通の人間だろう。
なので絶対善による感動話は、やっぱり白けてしまうのである。


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