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いじめ問題 [学校・教育・いじめ・少年犯罪関連]

■自殺した小6の女子児童の件で。

女子児童は、皆が友達同士で給食を食べる中、ひとりぼっちだったとか・・・

それにしても「ひとり給食」は辛かっただろう。
私も学生時代、早く仲の良い友人をつくらないと、早くグループの中に入らないと、というプレッシャーがあった。
大勢の中で、ひとり孤立してしまうことを大変、恐れた。それは今の子どもも同じだろう。

ただ、この件では、クラスの生徒達は担任の言うことを聞かず、学級崩壊していたと聞いたけど・・・

マスメディアや親から叩かれがちな先生に「指導力」を期待するほうが間違っているかもしれない。

今は、先生と生徒は対等だ、ということで、教壇もなく、 卒業式に歌われていた「仰げば尊し」もおかしい、と言われ、歌われなくなり・・・
ほんのちょっとした体罰も禁止となり、一方、生徒からの暴力には耐えないとならない先生。 対等どころか、先生のほうが「下」になる場合もある。

なのに、なにかあれば「先生や学校のせい」にするというのも、なんだかな・・・と思った。
もし、先生と生徒が対等な立場だとするのであれば、いじめた生徒が責任をとるべきだろう。

先生に頼ってはいけないのである。
先生に守ってもらいたければ、「それなりの力」を学校と先生に与えないと、無理かもしれない。

もちろん、多々ある学校問題では、教師にも問題ありの場合もあるので、「生徒だけが悪い」とも言い切れないかもしれない。
ある「いじめ事件」では、担任の先生が率先していた、ということもあったようだから。

それでも、学校では「先生の言うことを聞くこと」をまず基本にしないと、クラスを運営していくのは難しい・・・それには先生は「立場上は生徒の上」であることを親や世間が認めたほうがいいように思う。

なのに、なにかあれば、まず校長と先生が責め立てられ、校長をはじめ、先生達が頭を下げまくる姿をみれば、子どもはますます「学校と先生を見下す」ようになるかもしれない。

責任をとるのは、まず「いじめた生徒とその保護者」にしないと、 「いじめても、責任は学校と先生にあり、学校と先生のせいとなる」と子どもは高をくくるかもしれない。子どもは責任をとらなくていい、と思ってしまうかもしれない。

子どもは「自由を制限されるべき存在」であるかもしれない。
自由は、必ず「責任」とセットだからだ。

私が小中学生だった頃は、給食は自分の席で、あるいは決められた班で食べさせられた。好きな友達と一緒に自由に、というのは許されなかった。

遠足などで一緒に行動するグループも、決められ、バスの席も決められ、自由はきかなかった。

そのかわり、あぶれる子もいない・・・
ひとり残されるという子もいなくなる。

少年法はじめ、子どもは保護されるべき存在で、子どもは責任を取らなくいい、とされる社会において、自由は制限されて当然・・・かもしれない。
責任はとらなくていいし、強制されず自由に振舞っていい、というのは、まかりとおらないと思うのだが・・・
そして、学級崩壊で、損をするのは、結局、生徒自身なのである。

また、ひとクラスの生徒の数をもっと減らせば、とも思う。
教師の仕事はかなり過酷で、授業だけではなく、いろんな書類作成にも時間がとられ、休みがほとんどないと聞く。
忙しい中、生徒ひとりひとりを見ていくには、あまりに時間がなさすぎ、余裕もなさすぎ・・・
せめて担任する生徒の数を減らせば、もう少し余裕ができるのでは、と。
過酷な勤務の中、40人もいる生徒に目を配るのは難しい。

20人が理想だと知人の教師は、言っていた。
民主党も子ども手当てでばらまくのではなく、学級の生徒数を減らし、教師の数を増やして欲しい・・・そういったところに税金を使って欲しいと思うが・・・


私の世代は・・・意味の無い校則=規則に縛られ、強制されることに反発し、対等であること、自由であることは素晴らしい、とついこの間まで思い込んでいた世代かもしれない。少なくとも私はそうであった。
けど、それはちょっとでも行き過ぎれば、無秩序となり、とても過ごしにくくなる。そして弱者が犠牲となり、多くの人間にとってマイナスとなる。

私は、中学生の頃、教師の力がものすごく強かった学校と、先生に力がなく、すでに校内暴力の芽というか学級崩壊しかかっていた学校を経験した。どちらが過ごしやすかったか、というと、校則に縛られていたが教師の力が強かった学校のほうである。

それでも・・・「自由」を歌う尾崎豊が流行り、自由は素晴らしい、と能天気に思っていた。
保護を受けている身であれば、自由は制限されて当然なのだ、ということに気づかないでいた。
そして保護してくれる人とは「対等関係」にはなりえない、ということにも。保護してくれる人から何かを強制されるのも当然なのだということにも。

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余談

「仰げば尊し」について、こんなことが書かれてあった。

以下コピペ

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生徒側は教育の経費を税金としてを支払っており、教師にタダでボランティアをしてもらっている訳ではありません。
教師側が給料を受け取る事は一つのビジネスとして成立している以上の理由付けは難しく思います。
「我が師の恩」と言う歌詞を歌う行為は、個人的に教師に恩を持つ人間がそれぞれの場で感謝し謳えば良い物であると考え、一斉に強制的される物ではないと考えます。
卒業式など重要に参加せざる得ない場所で、強制的に教師に向かって起立しを斉唱すべき事は「仰げば尊しに反対する者も少なからずおり、このような主義主張を持つ者の思想・良心の自由も、他者の権利を侵害するなど公共の福祉に反しない限り、憲法上保護に値する権利。 起立や斉唱の義務を課すことは思想・良心の自由を侵害する」
一方的な一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制することに等しく、教育基本法10条1項で定めた『不当な支配』に該当し違法すると考えられます。

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抜粋終わり。

このような考えをもった人たちが大勢いるとしたら・・・先生はただ学科を教えるだけ、でいいと思う。言うことを聞かない生徒は放っておく。

そう、生徒の自主性とやらに任せればいい。先生は「強制」してはいけないのだから。
なので、それで上手くいかないのであれば、なにか問題が起きたら、それは生徒のせいなのである。

まあ、でも、「仰げば尊し反対論」に対し、こういう意見があった。
以下コピペ。

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道ばたで先生と会ったとしましょう。

「おはようございます」
と言いますよね。

給食食べるときに
「いただきます」
って言いますよね。

仰げば尊し、の歌詞は確かに「師を敬う」という意味ですが、
「先生と言うからには絶対に敬ってへつらえ」という深い意味はなく、

「3年間おせわになりました。ありがとう」
ぐらいの軽い謝意を表現する歌と言えませんか?

強制といって「歌わなかったらどつき倒す」というのならまだしも、教育も公民性を育成する目的がある以上「ありがとうぐらい言えよ。」という教育の手段としては容認される範囲じゃないですか?

この手の論調は「100%正当化されない以上絶対にダメだ」みたいな感じがすごくします。他に歌があるかもしれませんが、別にこれでもいいじゃない、という穏当な論調で落としどころをつけるという選択肢はないのでしょうか?

もう少し言うなら、この質問で上げられる主張からするなら

「給食は給食費を払っているのでいわばレストランに食いに行っているようなものだ。それを「いただきます」「ごちそうさま」と言わせるとは何事か」といわれたらどうします?そういう意見もまた一つ、というのなら別ですが、通常それは礼儀知らず、というそしりをうけると思いますよ。



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